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私が知る専門書や専門雑誌の連載記事の世界では、その出来具合は執筆前の資料集めの段階でほぼ決定します。資料集めの対象ですが、専門知識に関連する膨大な基礎資料の探索はもちろんのこと、過去に同一のテーマで出版された国内外の書籍や文献についても徹底的な調査を行わなければなりません。その上で全体像を俯瞰し、先人の良いところは真似、悪しき表現は削り、説明不足の点は新たに起筆する。当たり前のことと言えば当たり前ですが、この作業の意味を理解し実践している商業出版社は、ほとんどないと言って良いでしょう。
試しに本屋の情報処理コーナーを覗いてみましょう。C言語ひとつをとっても、入門書からポインタの専門書まで多種多様の書籍が並んでいます。今から30年近く前、"K&R プログラミング言語C"ただ一冊しか存在しなかった時代を思えば、現在は初学者にとって桃源郷に違い有りません。
「バリバリ分かるよC言語、分かりすぎて困っちゃうよ、母さん」
こんな読者があちこちで輩出されているはずですが、現実はそうではないようです。変数のスコープやポインタで頭を悩ませる人達は後をたたず、この状況は30年前と少しも変わっていません。
本棚を変えて今度は論理回路。大学での講義をはじめとして、多くの学生やエンジニアが一度は手に取る書籍のためか、種類は豊富で結構なお値段もします。しかし、その内容・構成は見事なまでに画一化されており、まさに金太郎飴状態。
「論理回路の本って、どれを読んでも砂を噛むように味気ないよ、母さん」
読めども読めども、書かれた知識は体の中を通り過ぎるだけで、後には哀しい敗北感が残るのみ。少なくとも私はそう感じてきました。
なぜ読者は開眼できないのか?
答えは簡単、出版社と編集者、そして著者があまりにも「不勉強」であるからです。過去の著作を徹底的に調査し、より進化した書籍が発刊され続けていれば、専門書のレベルが上がることはあっても下がることはないはず。ところが、実際には「右に倣え」とばかり、COPY&PASTEのような書籍ばかりが書店に並んでおり、そこには工夫や独創性のかけらも見られない。退行は日常茶飯事、あろうことか、間違いが引き継がれることもしばしば。
ごく稀に、著者のたゆまぬ努力の末に奇跡のような名著が生み出されることもありますが、それらは膨大な数の凡書・悪書に埋もれ、絶版と化していく・・。専門書に関して言えば、名著が時代を超えて生き残るというのは、大いなる幻想。悲しいけれど、これが現実。さらに恐ろしいことに、次々に繰り出される自己啓発書は、いずれも乱造される書籍の多読を勧め、読者の不安と購読を駆り立てます。
「ほれ買え、それ読め、高速道路をひた走って勝者になれ!」
飽書の時代を生きる読者に必要なものは、多読の技術ではなく、名著を選び出す眼識だと私は思います。
それでは、専門書における名著とはどのような存在であるのでしょうか?この問題を考えるにあたり、知識と知恵の違いに言及した、あるユダヤ人教育者の言葉をご紹介します。
学校では知識を教えるのであって、知恵は教えない。知恵と知識の間には、どのような違いがあるのだろうか。この二つには、大きな違いがある。まず、こういう状況では何をしたらよいか、ということを教えるのが知識である。これに対して、何をしてよいのか知らないときに、どのようにやったらよいかという判断力を養うのが、知恵である。
ユダヤ人は頭のよい人と、賢い人の区別もつける。頭のよい人はどのような人なのかといえば、自分がトラブルに陥ったときに、そこからうまく抜け出せる人間をいう。知恵のある賢い人間は、はじめからそのようなトラブルに巻き込まれない人のことをいう。
知恵は判断力であると言い換えてもよい。そして知恵は、どのようにして知識を駆使したらよいのか、教えるものである
受験戦争に代表される通り、日本の教育では知識の詰め込みが第一義とされています。そして学校で使用される教科書もまた、知識の羅列に始まり知識の羅列に終わる。まさに砂を噛むがごとき内容であり、生徒に知恵を授けるにはほど遠い存在。
一方、真の名著は、知識を編み出すに至った先人の軌跡とその知恵を説きます。これは「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」と語った松尾芭蕉の教え、そのものです。
先日紹介した勝間氏の著書のキーセンテンスは「情報は一定量を集めると質に転換する」というものでした。これに対して、私の経験は「カスは幾ら集めてもカス」であることを主張しています。カスという言葉がお下品であれば、糟粕(そうはく)と言い換えて頂いても結構。
片鱗の知識しか語られない凡百の凡書を読破したところで、何も身に付きはしないことを私は幾度となく体験してきました。
「こん畜生、これだけ読んでいるのに全くわからんよ、トホホ・・」
加えて若き日の私を混乱させたのは、世の中のお偉い先生方が名著と認定し、市場でベストセラーとなっている書籍をいくら読んでも分からないという事実。「ワシってほんまにアホなんや」心底そう思いました。と同時に、「世の中には、なんと頭の良い人が多いのだろう」とも。
当時私が手に取った書籍が、ことごとく凡書であり悪書であった事実を教えてくれたのは、それから数十年をかけて邂逅を果たした数少ない名著達です。彼らが私に教えてくれたことは、次の通り。
物事を体得するためには、ある閾値を超える必要がある。凡百の書は閾値を超える力を持たない。しかし、真の名著はただ一冊で閾値を乗り越え、読み手の心に火をつけることができる。
先ほどの論理回路に例えると、書籍による学習は多値入力のOR素子と言えます。5V入力のICであれば、出力がLOWからHIGHレベルに変化するためには、入力電圧として最低2-3Vは必要。0.1V, 0.5Vなど閾値に達さない入力では、たとえ100本を並列に接続したところで、出力はLOWレベルのまま変化しません。しかし、1本でも閾値を超えることができれば、出力は劇的に変化するのです。
名著に出会うためには、長きにわたるたゆまぬ探索が必要です。そのほとんどは絶版となり書店に並んでおらず、インターネット上で言及されることもなく、静かに眠りについているからです。
「1万円で1冊の良書に出会える」という勝間氏のスタンスは、私とは対極にあります。Amazonで十万円かけたところで、名著に出会うことは難しいでしょう。識者の書評や読者のレビューは、多くの場合、全くあてにならないからです。
以上が、30年近くをかけて辿り着いた私の結論です。