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年を重ねるごとに、体力や集中力が低下していくことを思い知らされますが、ものを感じる心や調べる力は、逆に豊になっていくようです。特に古典に関しては、若い頃には左から右へ通り過ぎるだけであった言葉達が、全く異なる表情をもって目に飛び込んでくるから不思議です。
この現象をラジオ周波工学の言葉で説明すれば、古典と自分との間に「共振」が発生しているのだと思います。「同調」と呼び変えても良いかもしれません。自分の心が持つ共振回路の周波数が、古典のそれと一致した時、私達の精神は激しく揺り動かされます。
共振回路の特性を決定するものは、年齢・経験・喜怒哀楽・教育環境、様々な要因があるのでしょうが、ラジオ愛好家が自分の手でコイルを巻くように、私達も日々の生活の中で気づかない間に「心のコイル」の巻き数や「心のコンデンサ」の容量を変化させているのかもしれません。
今回、私の心を激しく共振させたものは、川上正光博士の「電子回路 第三巻」の冒頭で引用されていた、松尾芭蕉の言葉です。
古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ
大変有名な言葉で、若い頃の私も読み知ってはいたのですが、当時は「はぁ、なるほどね」と小生意気な感想を持っただけで馬耳東風。ほとんど共振していなかった訳です。しかし、今回は違いました。あまりの揺れの強さに、頭はクラクラ、心には大波。
ともあれ、まずはこの言葉の出典について調べました。google さまは、こういう時本当に便利ですね。伊藤 洋氏による芭蕉DBの中に、目的の原典が掲載されています。
原典は、門人である森川許六(きょりく)が彦根に帰藩する際、松尾芭蕉(当時50歳)がその餞別として書き与えたものです(題は、許六離別の詞もしくは柴門の辞)。句読点による間の置き方や言葉の流れはさすがで、「やまとことば」の素晴らしさを再認識させられます。現代の読み方ではその価値が半減してしまうため、一部に振り仮名を付けたものを掲載しておきます。
去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、今年五月(さつき)の初め、深切に別れを惜しむ。その別れにのぞみて、一日(ひとひ、ある日)草扉(そうひ、深川の芭蕉庵)をたたいて、終日(ひねもす)閑談をなす。その器(うつはもの、許六をさす)、画(ゑ)を好む。風雅(俳諧)を愛す。予こころみに問ふことあり。「画は何のために好むや」、「風雅のために好む」と言へり。「風雅は何のために愛すや」、「画のために愛す」と言へり。その学ぶこと二つにして、用をなすこと一(いつ)なり。まことや、「君子は多能を恥づ」といへれば、品(しな)二つにして用一なること、感ずべきにや。画はとって予が師とし、風雅は教へて予が弟子となす。されども、師が画は精神徹に入り、筆端妙をふるふ。その幽遠なるところ、予が見るところにあらず。予が風雅は、夏炉冬扇(かろとうせん、夏の囲炉裏と冬の扇)のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。ただ、釈阿(藤原俊成)・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも、「これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる」と、のたまひはべりしとかや。されば、この御言葉(みことば)を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。なほ、「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」と、南山大師(南山は高野山, 大師は空海)の筆の道にも見えたり。「風雅もまたこれに同じ」と言ひて、燈火(ともしび)をかかげて、柴門(さいもん)の外に送りて別るるのみ。
出典は「新潮日本古典集成 芭蕉文集 (昭和53年初版)」を用いました。許六離別の詞をはじめとする芭蕉の文は、「芭蕉文集」としてまとめられています(野ざらし紀行・おくのほそ道などを含む)。私も、この機会に絶版本も含め4種類の芭蕉文集を入手しましたが、新潮日本古典集成版のものが、年齢順に作品が並べられ、注釈も気に入っています。
なお、許六離別の詞だけでなく、芭蕉が草庵に移り住んだ初期に著した、柴の戸・月侘斎・茅舎の感・寒夜の辞なども、短いながら四十を前にした芭蕉の肉声が伝わる素晴らしい作品であり、読む者の心を打ちます。
許六は狩野派の絵に長じており、入門後芭蕉に絵を教えていたようです。前半は互いを師として認め合った仲が語られ、「その幽遠なるところ、予が見るところにあらず」と芭蕉は許六の筆の素晴らしさに対して、素直に敬意を表しています。一方で、自身が教えた俳諧(芭蕉の時代、俳句という言葉はなかった。俳句という造語が誕生したのは明治時代)に関しては、「衆にさかひて、用ふるところなし」と、自分の作品は世間の人々が求めるところに背き、無益無用のものであるとしています。
この言葉の背景には、当時の俳壇において「点取俳諧」と呼ばれるものが流行していたことがあります。これは、俳諧宗匠が選者となり門人の作品に点数をつけ、高得点を獲得した秀句を印刷して配布するというシステムですが、投句の際には入花料(参加費)が徴収されます。当時の俳諧宗匠は入花料によって高収入を得ていましたが、大衆もまた、自身の作品を掲載するために、高得点を獲得した句がまとめて掲載された「点取俳諧集」を購入しては、研究に努めたのだとか。
何やら、現代社会にも通じるお話ですが、芭蕉は自身の俳諧が実利実益とは無関係な真の風雅であることを「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし」と逆説的に表現しているのです。
そのような芭蕉が "共振" した作品は、西行法師や藤原俊成の和歌であり、後鳥羽天皇の言葉より「これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる」を引用し、「その細き一筋をたどり失ふことなかれ」と続けています。
ここまで読み進め、私は「まさにその通り!」と一人で叫ばずにはおれませんでした。先日紹介した電子回路や基礎電気回路のように「まこと」を宿した専門書は極めて少ない上に、絶版などの事情により必要とする読者の元へは届きません。いつの世も、「まこと」への道は、極めて細く辿り難いものであるようです。私は、この事実をこそ学校で生徒に教えるべきだと思うのですが、教科書が絶対視される日本では、はかない夢に過ぎないのかもしれません。
最後に、芭蕉が「風雅もまたこれに同じ」として引用している、南山大師の筆の道。芭蕉が影響を受けた空海の原典は、漢語で記されているのですが、簡明にして調子の良いやまとことばで言い換えている点は、さすがです。
不遜ながら私なりに意訳すると、
先人の結果を真似るのではなく、先人が結果に至った道筋を学べ
となるでしょうか。
次に、私の共振相手は芭蕉から一気に千年遡り、空海へと引き継がれます。