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2009-05-02 (Sat)

[Thoughts][Books] 小説作法 スティーヴン・キング (その二)

古今東西、多くの作家が小説や文章作法に関わる書籍を著していますが、「小説作法 (On Writing)」は、次の二点において異色を放っています。

  • 執筆に臨む際の覚悟を問うている
  • Editing process の重要性と実例を示している

特に後者に関する記述はとても重要なもので、他書ではお目にかかれません。残念ながら、今の学校教育の中で教師から一生役立つ編集の手ほどきを受けることは不可能に近いでしょう。社会人となった後も、優れた "編集者" (職業人だけでなく指導者も含む)に出会うことは、良き伴侶を見つけることよりも難しい。

Stephen King は未だ mentor に巡り会えていない読者に向かい、高校時代に出会った自分の師から学んだことを伝えようとしているのです。

But it's writing.

第一章 生い立ち(C.V.)が終わると、いよいよ第二章 道具箱 (TOOLBOX)において文章作法が始まる訳ですが、二つの章の間隙に "文章とは何か(What Writing Is)" と題する5ページが挟み込まれています。ここで読者は、いきなり著者から頭をぶん殴られるのであります。

 動機は何でも構わないが、ただ、軽い気持で書くことだけは止めてもらいたい。繰り返す。軽い気持ちでまっさらのタイプ用紙に向かってはならない。(略)

 いやしくも、ことは文章である。車を洗ったり、アイラインを引いたりするのと一緒にはならない。これを真面目に受け取ってくれる読者とは話ができる。真面目には受け取れず、また、その気もない向きはこの先を読んでも無駄だから、本を閉じてほかのことをした方がいい。車でも洗ったらどうだろう。

本論に入る前に、読者は permission slip を胸元に突きつけられます。「お前は本当に執筆に対する覚悟ができているのか?」と。かく言う私も最初は脳震盪を起こしかけましたが、正気に戻ってみれば King 氏は実に大切なことを語りかけている。頑固親父に拳骨をくらったようなもの。

「軽い気持ちでまっさらのタイプ用紙に向かってはならない」は、今となっては時代錯誤の表現になっていますので、原文を引用しておきましょう。

 You must not come lightly to the blank page.

「いやしくも、ことは文章である」これは名訳だと思いますが、やはり原文の方が簡潔で味わい深い。

 But it's writing.

ここまで気魄のこもった文章で、読者に覚悟を問う文章指南書は他にはないでしょう。翻訳者が後書きにおいて「安直なハウツー本とは何光年もの隔たりがある」と書いている所以のひとつです。

書くは人、磨くは神

On Writing の Third Foreward には、"The editor is always right." という文に続き、"to write is human, to edit is divine." という言葉が記されています。池氏は後者を「書くは人の常、編集は神の業」と訳していますが、私であれば「書くは人、磨くは神」とするでしょうか。

 信頼のおける編集者は常に正しく、その技は神にも等しい

ここまで言い切る作家は珍しいと思いますが、その根拠となる背景は King 氏の高校時代にまで遡ります。

by John Gould

How the editing process works?

小説作法 (On Writing)が際だっている点は、著者が編集の重要性を実例をもって示していることにあります。

著者自身が万年筆で校正した原稿の実例はふたつ。ひとつは補遺に納められている "1408" の原稿(残念ながら翻訳書では和文が掲載されているのみ)。もうひとつは、著者が高校2年生の時にリスボン週刊新聞編集長 John Gould から受けた、スポーツ記事の校正(右図)。

「高校生が書いた、にわか記事の校正など読んで勉強になるの?」などと馬鹿にしてはなりません。King 氏は自身が青二才の頃に書き下ろした原文と校正を昨日のことのように回想しながら、"I offered an example of how the editing process works." と真顔で記しています。

ペンで文章を梳く

高校時代の Stephen は校内新聞の編集長をつとめていた。教師に対して、生徒なら誰でも分かる強烈なあだ名を付け、ありもしない逸話を満載した滑稽新聞で校内を抱腹絶倒の渦に陥れたのだとか。無論、事態はただで治まるはずがなく、筆禍を被った女性教師(あだ名は Maggot)は校長に彼の停学処分を求める始末。

「Stephen のあり余る文才を創造的な方面に向ける策はないものか?」と悩んでいた進路指導教官は、リスボン週刊新聞の編集長 John Gould に打診した。折しも同紙はスポーツ記者を探しており、面接の後 Stephen は試験採用されることになった。以下は、その後の顛末。

 グールドは大きなロールに巻いた黄色いタイプ用紙をくれて、一語につき半セントの賃金を払うと言った。文章を書くことに賃金を約束されたのは生まれてはじめてだった。この時の黄色いタイプ用紙は今も家のどこかに残っていると思う。

 小手調べの仕事は、リスボン・ハイスクールの選手が記録を書き変えたバスケットボールの記事二本で、一つは見たままの試合経過、もう一つはロバート・ランサムの目覚ましい活躍を伝える読み物だった。私は金曜の発行に間に合うように、試合の翌日、グールドに原稿を渡した。彼は試合経過に目を通すと、二箇所ばかり細かい点を直したきりで没にした。それから、黒の太い万年筆で読み物記事に手を入れにかかった。

 私はその後の二年間、リスボン・ハイスクールで英文学をみっちり学び、大学でも文章作法、創作、詩の講義を真面目に聞いたが、ジョン・グールドはそれらすべてよりも多くのことを、ほんの十分足らずで教えてくれた。原稿校正の手本として額縁に入れて飾ってもいいような、記念すべき記事が今手元にないのは残念だが、グールドが黒の万年筆で手を入れた文章を私はありありと思い出すことができる。

グールド編集長は、高校大学で学んだすべてよりも多くのことを教えてくれた」という言葉は、文章作法について指導できるだけの高い国語力を有した教師が、教育現場で圧倒的に不足している事実を物語っています。続く "原稿校正の手本として額縁に入れて飾ってもいいような記念すべき記事" というくだりは注目に値しますが、惜しむらくは翻訳が不完全です。原文は以下の通り、

 I wish I still had the piece -- it deserves to be framed, editorial corrections and all -- but I can remember pretty well how it went and how it looked after Gould had combed through it with that black pen of his. Here's an example:

この文章中では "how it went and how it looked after" が重要ですが、「編集がどのようにしてなされ、原文がどのように生まれ変わったか」が訳文から欠落しています。また原文に示されている通り、"額縁に入れて飾ってもいい (to be framed)" という形容は記事そのものではなく、"編集の御技 (editorial corrections and all)" にかかっています。「ペンで文章を梳く (comb through)」という表現も訳文では割愛されていますが、この英語に私は心底痺れました。編集の極意を物語る名句だと思います。

I only took out the bad parts.

それでは、若き日の Stephen による原文と、経験豊かな名編集長 Gould による校正をふたつ並べてご覧にいれましょう。まずは原文から。

 Last night, in the well-loved gymnasium of Lisbon High School, partisans and Jay Hills fans alike were stunned by an athletic performance unequaled in school history. Bob Ransom, known as "Bullet" Bob for both his size and accuracy, scored thirty-seven points. Yes, you heard me right. Plus he did it with grace and speed ... and with an odd courtesy as well, committing only two personal fouls in his knight-like quest for a record which has eluded Lisbon thinclads since the years of Korea ...

原文は編集により、次のように生まれ変わります。

 Last night, in the well-loved gymnasium of Lisbon High School, partisans and Jay Hills fans alike were stunned by an athletic performance unequaled in school history. Bob Ransom, known as "Bullet" Bob for both his size and accuracy, scored thirty-seven points. Yes, you heard me right. Plus He did it with grace and speed ... and with an odd courtesy as well, committing only two personal fouls in his knight-like quest for a record which has eluded Lisbon thinclads players since the years of Korea 1953 ...

この校正は、ともすれば "ただ削られただけ" としか見えないかもしれません。かく言う私自身、高校2年生を遙かに通り過ぎた大学院時代に同じ目にあった覚えがありますが、「このオッサン、ワシの美文を削り込むとはどういう了見や!」と心の中で教授に息巻いていたことを白状いたします、ハイ。しかし、Stephen 少年はそうではなかった。

 ここに示したように手を入れ終えると、彼は私の顔から何かを読み取るふうだった。たぶん、私の表情を反感と見誤ったのだと想像する。そうではない。目から鱗が落ちるとはこれだった。英語の教師がどうしてこういう教え方をしてくれないのか、私は首を傾げずにはいられなかった。

高校2年生の彼は、出来上がった校正を前にして、まさに目から鱗が落ちる思いで「英語の教師がどうしてこういう教え方をしてくれないのか、首を傾げずにはいられなかった」といいます。本パートの訳はよく練られていますが、やはり原著の方が Stephen 少年の心情が伝わるでしょう。

 When he finished marking my copy in the manner indicated above, he looked up and saw something on my face. I think he must have mistaken it for horror. It wasn't; it was a pure revelation. Why, I wondered, didn't English teachers ever do this?

「おいおい、この校正を見て年端もいかぬ高校2年の男の子が "a pure revelation" と感じ取るのかよ?マジっすか?」というのが、ここまで読み進めた私の感想。恐らく Gould 編集長も近しい思いであったはず。

 「悪いところを削っただけだ」グールドは言った。「全体としては、よく書けている」

 「ええ」私は二つの意味でうなずいた。全体としては、よく書けている。少なくとも、使いものにならない記事ではない。そして、なるほどグールドは悪いところを削っただけである。「次からは、ちゃんとします」

 グールドは声を立てて笑った。「そう簡単にいくものなら、記事を書いて稼ぐことはない。原稿整理の仕事をすればいいんだ。」

"I only took out the bad parts." という編集長の言葉に、Stephen 少年は直ちに納得したという。「カ〜〜ッ、なんちゅう小生意気な高校生やねん!お前ホンマに意味が分かってんの?」とボルテージが上がる私に、次の言葉が畳み掛ける(既に King 氏の術中にはまっている)。

 "I won't do it again."

「二度と同じ過ちは犯さないとは、既に文豪の高みにまで達しているというのかよ・・もうあんたのスキにして」その場で笑い流すしかなかった、Gould 編集長の気持ちがよくわかります。

 "If that's true, you'll never have to work for a living. You can do this instead."

彼が返した言葉の意味は「無駄のない文章を本当に理解し、自在に操ることができるのであれば、君は今後食べることに困りはしない。編集者として豊に生きていくことができるだろう」ということでしょう。それにしても驚くべきは、この校正の意味を高校2年の少年が正しく理解していたという事実。恥ずかしながら、私が Stephen 少年の視点に辿り着けたのは三十も過ぎた頃でしたし、今でも John Gould の手腕には及びません。

悪いところを削ることの難しさ、これは古来多くの文豪が認めるところですが、三島由紀夫は文章読本の冒頭において次のように述べています。

 私は中学時代に受けた作文教育にいまだに疑問を持っております。そこではもちろん平均的情操にしたがって作文が教えられていましたが、最もよい文章とされていたのは、直叙する文章、修飾のない文章、ものごとを淡々とそのままに描写することの深い文章が、いい文章と教えられました。しかし本来の文章道からいうと、このような文章は多くの作家がたくさんの余計なものを削除したのちに最後に到達する理想の境地であって、中学生のような余分なエネルギーに溢れた年代の人間には、ほんとうに理解されるはずのものではありません。

まさしく、King 氏は続くページで「直叙する文章、修飾のない文章、ものごとを淡々と描写する文章」の方法論を述べていく訳です。ではなぜ、血気盛んなエネルギーに溢れかえっているはずの Stephen 少年に文章道の奥義が理解できたのか?その秘密は、才能もさることながら彼が幼少時代より積み重ねてきた、気が遠くなるほどの読み書きの鍛錬にあったのでしょう。

Strenuous reading and the force of your writing

King 氏は作家志望者に、徹底した読み書きのプログラム(strenuous reading and writing program)を勧めています。「テレビを付けることなく、1日4〜6時間集中し、これを毎日続けよ」と。まさに修行。strenuous reading とは一風変わった表現ですが、彼は次のようにも述べています。

 読むことはまた、飽くなき知識の深化に繋がる。先人が何をしてきたか、まだ誰も手をつけていないことは何か。何が陳腐で、何が新鮮か。ページの上で何が働き、何が効果を失って埋伏するか。こうしたことを判断する力はすべて読むことによって養われる。読めば読むほど、ペンやワープロでぶざまな失敗を犯す危険は遠退く道理である。

これは、小説だけでなく technical writing にもそのまま通じる内容でしょう。彼はまた、作家が成長するためには名著に邂逅し、一度は打ちのめされる必要があることを説きます。

 文章に風格のある優れた作品に圧倒され、打ちのめされる体験は、すべての作家が一度は潜らなくてはならない試練と言える。その体験を経ずして、自分の作品が人を圧倒する望みはない。

後半の原文は次の通り。

 You cannot hope to sweep someone else away by the force of your writing until it has been done to you.

名言にして名文、しかも普遍性を持つ言葉です。

Paragraphs are maps of intent

最後に、他の文章読本にはみられない King 氏独特のアドバイスをひとつ。私は文章を目にした際、英文和文を問わずパラグラフの形を気にします。いびつに入り組んだパラグラフは視界に入っただけで、もうダメ。生理的に受け付けません。「こんな自分は異常者かしらん・・」と長らく不安に思っていたのですが、本書の中に次のようなくだりを発見。

 パラグラフは、内容もさることながら、体裁もまた、それに劣らず疎かにできない。パラグラフは作者の意向を示す地図である。(略)

 物書きを志すならば、パラグラフという道具を使いこなさなくてはならない。それには訓練が必要だ。まずはビートを体得することである。

ブラボー、"paragraphs are maps of intent" ですってよ。しかも、パラグラフを使いこなすためにはビートの体得が必要とは!私はこの文章を読んで、荒木飛呂彦のコマ割りとジョジョの雄叫び「おおおおおっ 刻むぞ血液のビート!」がフラッシュバックしたのでありました。