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   西田 亙の本:GNU 開発ツール -- hello.c から a.out が誕生するまで --

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2003-10-10 (Fri)

[Thoughts] フィンランドにおける Ph.D. Defence

学位審査は日本の大学院生にとっても恐ろしいものである。普段おちゃらけた連中でも、さすがに審査日が近づくと目がつり上がり、寡黙になる。

その内容だが、「うむ、確かにこいつは博士としてふさわしい」と納得できるだけのプレゼンテーションをこなせる大学院生は、実はごくわずかである。中には「なんでこいつが博士やねん?単なる棚ボタちゃうんか?」という不届きな輩も確かにいる。それも結構な数だ。

噂というのは、悪いことの方が絶対速度は遙かに大きいので、「あの素敵な先輩を見習って、大学院で研究に打ち込むぞ!」とはならずに、「あんなボンクラ先輩でも、お情けで学位取れたらしいよ。仕事は全部上の先生がやったらしいけど・・」となる訳である。よって、大学内部における博士号取得者に対する評価はないに等しい。

「これっておかしいんちゃう?」私は常々、日本の学位審査に疑問を持っていた。この疑問の正当性を証明してくれる、衝撃的な手記を先日配られた学報に発見したので、紹介しよう。

その手記とは、「フィンランドで学位審査を体験して」と題するものである。これは、著者が University of Joensuu 物理学科における学位審査員に外部招聘研究者として参加した際の体験を綴ったもの。余りにも面白いので、大学の広報担当に「この記事をネット上で公開する予定はないのか」と尋ねたところ、目下「学内のみの公開となっており、その予定はない」とつれない返事。来春から独立行政法人化するという、この期に及んでも、いまだ親方日の丸なのだ。先が思いやられる。

とは言え、この貴重な手記を一地方大学の中だけに留めておくのは、あまりにも惜しいので、私の知見・意見も加えて、ダイジェスト型式でまとめておく(過激な箇所はすべて私の文章である)。

フィンランドにおける学位審査は、論文審査を行う2名の「reviewers」と、 最終口頭試問を行う「opponent」が担当する。日本やアメリカとはことなり、この3名は全て「学外」の専門家でなければならない。

日本では、学内で仲の良い教授同士が「まぁ、よろしいんじゃないでしょうか」と茶番劇を演じている風景はよく見られるが、フィンランドでは「何をか言わんや」ということになる。

そして、フィンランドの学位審査の厳しさを象徴するものが、Ph.D. 最終口頭試問、いわゆる「Ph.D. Defence」である。Ph.D. とは、Doctor of Philosophy の略であり、万国共通で「博士号」として通用する(哲学だけを意味するのではない)。

審査を受ける当の本人を「candidate」、審査員を「opponent」、そして彼らの仲裁役を「custodian」と呼ぶ。

これらの言葉からイメージできる通り、最終口頭試問はアカデミックな「戦い」なのだ。

この栄誉ある戦いは、大学関係者だけでなく、candidate の親族・友人・恋人も含めた 一般大衆も参加可能な公会堂で行われるが、3人は燕尾服着用でうやうやしく入場する。

この様子は http://eve.physics.ox.ac.uk/Personal/suominen/promootio.html を見ると、よく分かる。正式には、燕尾服に加えて、特注のシルクハット、そして大学のエンブレムが打ち込まれた「刀」の三点セットが必要なのだそうである。学位審査は、本来研究者の命をかけた戦いなのだ。実際、この最終弁論で失敗した candidate は、その後の研究者人生を諦めることもあるという。

candidate は自分の学位論文の内容を「専門家以外」にも分かる言葉で、約20分をかけて「presentation」を行い、その後 candidate vs opponent の戦いが始まる。

これは学会でもそうであるが、その力量が試されるのは、発表者よりもむしろ質問者である。どうでもよいような、枝葉末節にこだわる質問を得意げに浴びせかける質問者というのは、どこの世界にもいるもの。経験ある研究者から最も嫌われるのはこの手の人間である。研究の本質を貫くような、鋭い質問が期待されているのだ。そして、一流の教授連中は、一連の質疑応答を実に注意深く観察している。会場の後ろで観察していると、彼らが「どいつが切れ者で、どいつがアホなのか」、一瞬にして看破してしまう様子がよく分かり勉強になる。フィンランド人が口頭試問で手にする「刀」は、決して飾りではないのである。

大学の既定によれば、この戦いは「4時間以上は続けるように」とあるらしい。この長丁場を candidate が乗り切り、opponent も十分と判断すると、「final statement」に入る。この中で opponent は「私は candidate が学位論文を成功裏に defend したことを認め、彼に Ph.D. を授与することを Faculty に進言する」と言い渡す。

口頭試問が終了すると、雰囲気は一変し、会場の外で candidate によるコーヒーとケーキが振る舞われる。和やかな雰囲気の中、candidate の母親が opponent である著者に語りかけた言葉が印象的だ。

「息子が大勢の人の前であなたから叩きのめされる姿を見ることになったらどうしようと、不安で仕方がなかった」

刀を携え緊張した面持ちで会場に向かう candidate、固唾を飲みながら口頭試問を見守る親族の姿、若き挑戦者に決闘を挑む opponent。いずれも日本では決して見られない光景だ。フィンランドでは、学位審査の厳しさを皆が知っているからこそ、Ph.D. が尊敬され、評価もされるのだろう。

「仏作って魂入れず」、現在の日本における学位量産体制は、まさにこの言葉に尽きるのではなかろうか?

あるシンポジウムの会食にて

上の手記を読んで、ふと思い出したことがある。あるシンポジウムが終わった後の、立食パーティーでのことだ。アメリカでの研究生活が長かった講演者と話す機会があったのだが、この中で「目からまぶた」級の面白いお話を伺った。

アメリカでは Debate がよく行われるが、この時同じ分野で「相反する主張」をもった複数の演者を招くのが慣例だそうである。ここからが面白いのだが、当人達は発表当日くじを引かされる。そのくじの先には、発表のお題がかかれているのだが、これらはいずれも「敵方のテーマ」なのだそうである。

例えば、Torvalds 氏が MINIX、Tanenbaum 教授が Linux 擁護派として、熱い議論を交わす光景を思い浮かべて欲しい。または、あるプログラミングテーマを与えられ、指定時間内にまつもと氏が Perl、Wall 氏が Ruby でコーディングに挑戦する光景でも良いかもしれない。

つまり、アメリカの優れた研究者には、独善に陥ることなく、敵対者の短所ばかりでなく、優れた点も冷静に把握できる懐の広さが求められているのである。そして聴衆は、全く逆の立場におかれた演者の言動や立ち居振る舞いをつぶさに観察することで、その人柄や能力を見抜く訳だ。恐るべし、アメリカ。