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例によって2ヵ月を超えるブランクとなってしまいましたが、充電も終わり Wataru's memo を復活します。
昨年は念願の自費出版を果たし、北は北海道から南は沖縄, 遠くはフランス、若きは高校生からご年配の方まで、多くの方々から GNU 開発ツール へのメッセージを頂きました。頂いたメッセージに共通していたものは、「基本を理解したい」という単純にして真摯な思いでした。中には「道半ばにしてプログラマーの道を離れ、ことなる職業に就いてはいますが、今一度基本から学び直してみたいと思います」という、印象的なお便りもありました。
正直、私はこれほど多くの方々が「基本」に対して強い眼差しを向けておられるとは思っていませんでした。Computer Architercture Serires で目指した方向は間違っていなかったことを感謝すると共に、楽しみに待って頂いている読者の方々へ、一日も早く続刊をお届けしたいと考えています。
しかし、全体を見渡しながら、ばらばらの要素をひとつの話にまとめ上げることは難しい。複数の書籍でお互いを補完し合いながら、大きなテーマを論じることはさらに難しい。
ノートを手に取り、構想を書き留めては捨て、また書き改めては捨ての繰り返し。筆は遅々として進まず、頭の中は混沌が支配。
そんな折り、あるロッククライマーの事故死が報じられました。
その人の名は Todd Skinner。ヨセミテ国立公園のリーニングタワーから懸垂下降中、ハーネスが破損し墜死 (2006/10/23, 享年47歳)。
恥ずかしながら、私はこのニュースを見るまで同氏のことは知らなかったのですが、フリークライミングの世界では圧倒的な実績を誇る名高いクライマーであり、カラコルム・ヒマラヤ山脈の絶壁 Trango Tower を登頂した際の経験をまとめた BEYOND THE SUMMIT が、世界中でベストセラーとなっていることを知りました。
日本語版は、NHK出版から近藤隆文氏の翻訳により「頂上の彼方へ」というタイトルで出版されています。普段はこの手のビジネス書を購入することはないのですが、"頂上の彼方へ" という言葉に惹かれるとともに、一流クライマーは一体どのような言葉を語るのだろうかと興味を持ち、手に取りました。
プロの翻訳家の手になるだけあり、自然な日本語に仕上がっている点はさすがです。タイトルは、原題 "BEYOND THE SUMMIT" をそのまま翻訳したものですが、翻訳版には原書にはない「究極の山から得た40の教訓」という副題が添えられています。目次には、これら40の教訓が全8章に分かれて並んでおり、いかにもビジネス書という印象を受けますが、原書の目次では各章のタイトル8つが並ぶだけであり、趣はかなりことなっています。
さて、その教訓ですが一見普遍的な事実ではあるけれど、なるほど味わい深い言葉が並んでいます。いくつかご紹介しましょう。
これらの教訓もさることながら、最も印象に残ったのは「はじめに」で語られる、氏が生まれて初めて講演で Standing ovation を受けたシーンです。Skinner 氏は、当初アウトドアやクライミング愛好家を対象にした講演を行っていましたが、ある時世界的に有名な企業から依頼を受けます。聴衆は 5000人の優秀な社員。壇上の Skinner 氏には、彼らが「山登りに一体何が語れるのか?」と訝っているように見えたそうですが、分野は違えど聴衆は氏の言葉を誰よりも正確に理解し、講演終了後には Standing ovation で彼を讃えました。
この時の事を、Skinner 氏は次のように述懐しています。
だが驚いたことに、彼らは翻訳を必要としなかった。 おたがい同じ言語を話していたのである。 彼らはすでに未踏の地を目指すクライマーのような考えをしていた。
原書のバックカバーには5人の推薦の言葉が記されていますが、そのうちの二人は Microsoft 社と Adobe 社の senior vice president です。ひょっとすると、序章で登場する先端企業とは、Microsoft 社のことかもしれません (氏は IBM や Apple でも講演を行っていたようです)。
山を愛するクライマーではなく、登山とは縁遠い IT 企業の社員の精神に Skinner 氏の言葉が響いたということに、強い感銘を受けました。と同時に、日本語ではなくオリジナルの英文で氏の言葉を感じ取りたくなり、速攻原書を注文。
原書は、Penguin Group の PORTFOLIO 社が出版していますが、この装丁は感涙ものです。アメリカの paperback は、「今の時代に、これでお金取るの?」と思う程ひどい装丁や印刷が多いものですが、こと hardcover になると溜め息が出るほど素晴らしいものに出会うことがあります。
BEYOND THE SUMMIT の表紙は、著明な登山写真家 Bill Hatcher 氏の手になる Trango Tower の壮麗な写真で飾られています (Skinner 氏の近影も同氏の作品)。太陽の光を浴び、まるで血液が循環しているかのような赤い山肌に、白い雲が体を寄せ合うようにたなびいている姿が印象的です。カバーのレイアウトも山肌に合わせた配色になっており、素晴らしい。写真そのものの素晴らしさと相まって、本書の内容をたった一枚のカバーが雄弁に物語っています。ちなみにカバー下のハードカバー本体も、山肌と藍色に近い空色をイメージした二色で構成されており、とってもお洒落。
この原書に比べると、NHK出版の方は版権問題のためか、同じ写真は使用されておらず、随分「しょぼい」仕上がりになっており、大変残念 (しかも販促のための帯を優先したデザイン)。本書に限らず、海外のハードカバー本が翻訳される際には、このように装丁が様変わりしてしまうことが多いので、思い入れを持てる名著の場合は、原書も購入されることをお勧めします。
さて、原書の英文ですが、この手の書籍にしては驚くほど平易な言葉で綴られています。Skinner 氏には失礼なのですが、文章自体は恐らく別人(それも相当の手練れ)が書き下ろしているのではないでしょうか。例えば、公演後の述懐の原文は次の通り。
I found to my amazement that they didn't need a translation, because we spoke the same language.
"We spoke the same language" とは、シンプルにしてなんと渋い文章でしょうか。願わくば、あの世に旅立つまでにこのような経験をしてみたいものです。この他、上で紹介した教訓のいくつかは次のように記されています。
エッセンスを単純にして明快な一文で表現してしまうその力量に、ほとほと感服させられると同時に、これらの文章が誕生するまでに、一体どれだけの「産みの苦しみ」があったことかと思います。考えに考え抜かれた名文を前にすると、私の悩みなど世迷い言にしか見えません。
「岩を積み重ねれば山になる」、これは本書の中で何度か繰り返される印象的な言葉です。Skinner 氏の組んだチームは、当時登頂不可能と言われていた Trango Tower 制覇のために、数ヵ月間に及ぶ冬季トレーニングを行いました。この時、最も難度の高い短区間を選び、集中的に訓練したのだそうです。曰く、
If we could climb this ten feet, we could climb any ten feet.
「この10フィートを克服できたなら、どのような10フィートであろうと、登り切ることができる」。技術と自信の積み重ねが大岩を制し、大岩の積み重ねが山の登頂へつながるというのが、Skinner 氏の考えです。
最新の Linux kernel 2.6 を前にすれば、誰しもどこから登って良いのか途方に暮れることでしょう。対象があまりにも大きすぎるからです。しかし、考えてみれば Linus 氏自身もまた、Skinner 氏と同じように最初は小山から登攀を始めたのです。それは、自伝である Just for Fun (邦訳:それがぼくには楽しかったから) や、Linux kernel 0.01 のソースを読めば、良く分かります。となれば、まず私達が着手すべきは、いたずらに高峰を目指すのではなく、「手近な大岩」でトレーニングを行い、基礎知識と自信を積み重ねることでしょう。ところが・・
世の中には「山の登り方」を教える本はあっても、「岩の究め方」を教える本は数少ないのです。Linux kernel を例にとれば、全体像やデバイスドライバーの解説書はあっても、基本土台となる IA32 アーキテクチャや、PC-AT アーキテクチャの優れた解説書は見あたりません。
さらに付け加えれば、アセンブリ言語に通じていない読者の場合は、難解な IA32 を学ぶ前に、シンプルな8ビットもしくは16ビットプロセッサを究める必要があります。最近は組み込みブームで、マイクロコントローラに関する書籍も数多く出版されていますが、丁寧に手すりが付けられたコースを読者にただ歩ませるだけのものが多いように思います。Skinner 氏は、次のようにも語っています。
Belief is an essential when you step into the unknown -- not belief that you know the way, but belief that you are prepared to find a way.
「未知の領域へ挑む際に必要なものは、ただ単に道を知っているという思いこみではなく、自分は新しい道を切り開くことができるという自信と信念である」 (超意訳 by 西田)
知識をただ網羅するのではなく、読者の方々が読み終わった後に、自らの足で新しい旅を始められる、そんな本を書きたい。BEYOND THE SUMMIT を読み終え、改めてそう思いました。
最後に、Skinner 氏の言葉を本文中からふたつほど引用して、締めくくりたいと思います。
We are all climbers. Wherever we are, even on flat ground, there are mountains all around us.
「我々はみな登山者である。その身はたとえ平地にあろうとも、我らの周りには山々がある。」 (意訳 by 西田)